「ありがとう」全てはこの一言からはじまった       戻る  TOPへ

●設立者佐藤敏雄と青梅佐藤財団

「青梅の皆様には本当に御世話様になりました。ありがとうございました。」
 青梅佐藤財団は、この感謝の言葉から始まりました。
設立者 佐藤敏雄は、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年に青梅に疎開して以来、1978(昭和53)年に他界するまで、 この地の人々と自然に囲まれて過ごしました。
 「菰の中からの人生」という自叙伝にも記述されている通り、幼少より筆舌に尽くしがたい苦境の日々を過ごした設立者 にとって、青梅の人々や風物に囲まれて過ごした日々は、かけがえのないものでした。
 その自らの後半生を育んでくれた青梅の自然、そして人々への感謝の心が、青梅の未来を担う青少年たちを支えたいという 思いに結実し、青梅佐藤財団が設立されたのです。
 以来、設立者の感謝の思いはさまざまな形で青梅の人々に広がり、現在に至っています。
自叙伝

●自叙伝「菰の中からの人生」

 1970(昭和45)年、74歳の佐藤敏雄が、四人の子供たちはじめ、次代を担う人々にあてて自らの生涯を書き記した 自叙伝です。
 不遇だった幼少期から、試行錯誤を繰り返した青年時代、そこから得たさまざまな教訓や人生観など次代を担う 若い方達に、時代を超えて読んで欲しい内容が詰まっています。
 ご興味のある方は、青梅佐藤財団までお問い合せください。

●略歴

1896年(明治29年)
 
宮城県名取郡秋保村(現 仙台市太白区)に生まれる。
一家離散のため県下各所に転々と居を移し、幼少より苦境の日々を送る。
「家といっても、床もなければ戸もない、屋根とむしろで雨露をしのぐのがやっとの、もちろん畳などはない みじめさであった。(自叙伝より)」
1910年(明治43年)
14歳
姉を頼って上京。
折からの第一次大戦下の不況のあおりを受け、多くの職を転々とするのを余儀なくされ、試行錯誤と挫折の繰り返し の青年時代を送る。
「少年時代からの起きころびを通算すると、実に二十七、八回にもなる。よく七転び八起きというが、私の起きころび の経験はその三倍を超えている。(自叙伝より)」
1925年(大正14年)
29歳
自作受信機でラジオ実験放送の受信に成功。
品川元芝町にラジオ店を開業。以後、電解コンデンサの研究開発を志し始める。
「とつぜん、それこそたえなる音色の琴三味線の合奏が聞こえてきた。これが私の初めて聞いたラジオであった。
その驚き、喜び、筆舌につくしがたく、胸は高鳴った。(自叙伝より)」
1931年(昭和6年)
35歳
待望の独自電解コンデンサを開発。
昭和9年には新工場を設立し、事業拡大の基礎となる。
1945年(昭和20年)
49歳
戦時疎開命令により青梅に疎開。以後の後半生を青梅で過ごす。
1947年(昭和22年)
51歳
日本ケミカルコンデンサー株式会社設立、社長に就任する。
1958年(昭和33年)
62歳
青梅市東青梅に新工場を落成、移転
1963年(昭和38年)
67歳
黄綬褒章受章。
1967年(昭和42年)
71歳
勲四等瑞宝章受章。
1977年(昭和52年)
81歳
青梅佐藤財団設立。
1978年(昭和53年)
82歳
永眠。
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